旅行記【下関〜宮崎〜別府】①

 前回の旅行(青森・秋田旅行)では旅行記を書こうと思ったものの、序章(目的地に着いて夜行バスを降りるまで)を書いて飽きてしまったため、今回こそ旅行記を書き切ってみようと思う。自分への挑戦である。

 

1日目(東京港

 家を出て、有明にある東京港へと向かう。ところで、有明という地名が東京にもあることを知らなかった。自分にとっての有明とは「海苔の産地」であり、どこか遠く南の方の海だとばかり思っていた。故に東京港有明にあると知った時に「海苔って東京で取ってたのか!?!?」と一瞬勘違いしてしまった自分が恥ずかしい。確認のために調べたところやはり九州の有明海であり安心した。東京産の海苔って、想像しただけでなんかアレだもんな、、、

 

 バスで東京港へと向かうと、車窓から隅田川越しに見える豊洲のタワマンの夜景が美しい。この辺りは私の思う「東京はこうでなくっちゃ」が詰まっているように思う。田舎者がそれぞれ抱く東京のイメージを掻き集めて作られたような「憧れの街、東京」がそこにある。

 余談だが、山内マリコ氏の「あのこは貴族」ではその辺りの東京への憧憬の描写が上手く描かれている。


 

 東京港ターミナルの最寄りのバス停に降りたものの、ターミナルまでかなり歩かなければならなかった。先程の「憧れの街、東京」の姿とは打って変わって人気のない寂しげな埠頭をのろのろと歩く。旅行の始まりはいつもそうなのだが、ワクワクするのと同時に「このまま行っていいのかな」「やっぱり引き返そうかな」と気弱になってしまう。一人旅なんか幾度となくこなしているはずなのに、である。

f:id:my-home-emotion:20210330194618j:image

 

 既にフェリーのチケットはとっちゃってるんだから!と、弱腰になっている自分を奮い立たせてターミナルに入る。ここに来る道中と同様、ターミナル内も人気がなく、うら寂しい。立ち並ぶ自動販売機だけが煌々としてその存在感を示している。

 

 ターミナルにて乗船口にてチケットを渡すと、宇宙船のような通路が長々と続く。重いスーツケースをゴロゴロしながら進むと、これから長い旅になるぞ自然と昂ってきた。

f:id:my-home-emotion:20210330194644j:image
 歩行者用入り口から入ると、船員さんと広いロビーが出迎えてくれる。フェリーは広く、設備も整っており、まるでちょっとしたホテルのようだ。2泊3日お世話になるには十分すぎるほどに立派な出立ちである。HPによれば温泉やゲームセンターまであるそうだ。ゲーセンはどうでもいいが、明日になったら温泉には浸かりに行こう。


 入り口の船員さんが言うには、私が下船する予定の福岡県の新門司港から最寄りの駅までアクセスが全くなく、その為乗り合うタクシーが出るので明日の15時までにフロントに予約を入れて欲しいとのこと。車がない私にはなんとも有難いサービスである。さて明日の15時までに覚えていれば良いのだが……

 

 今回の船旅は、せっかく2泊という長い時間を過ごすのだから、と贅沢に個室の部屋を予約してある。学生の時だったら問答無用に雑魚寝の相部屋だったところだが、私は社会人(休職中とはいえ…)で懐に多少は余裕ができた。

 部屋は窓付きで、今はターミナルが見える。きっと明日には広々とした海が見えると思うと俄然ワクワクしてくる。秘密基地みたいに心地よい狭さで、少年のような心が疼くどこか懐かしい空間であった。

 部屋で何者にも憚られず荷物を広げ、ワサワサとしていると、フェリーが東京から出港する旨のアナウンスがあり、徐々に船が揺れてきた。

昔、北海道の祖父母宅へ向かうのに一年に一回ほど家族でフェリーに乗っていた時のことを思い出す。昔は家族でワイワイ乗っていたフェリーに、いま自分が一人で乗っていることは不思議に感じる。

お父さんお母さん、私は成長しました。

 

2日目(フェリー内)

 

 個室は居心地が良く、家のベッドのようにぐっすりと眠れた。もともと何処でも寝られる体質ではあるが、あまりのぐっすりぶりに自分でも少し面白くなってしまった。もう東京はとっくに遠くへ行ってしまっただろう。

 余談だが、ちょうど私がフェリーでぐっすり寝てる間、東京ではBatsuくんが24時間DJをしていたそう。なんとなくちょっとウケる。見届けたかったが離岸してしまい電波が頼りなくなっていたので結局見ずに終わってしまった。みんな色々な挑戦をしているんだな。

f:id:my-home-emotion:20210516171350j:image


 ところで今日の予定は”一日船に揺られる”ということしかない。つまり圧倒的に暇なのである。私がわざわざ高いフェリーで長ったらしく2泊も過ごすことにした理由はここにある。要は「暇を買った」のである。


 船の上、さて何から始めよう。

暇を過ごすアイテムは沢山持ってきた。事前にBOOKOFFで調達しておいた本たち。ダウンロードしておいた映画、スマホで読める漫画や雑誌だってある。飽きたらお風呂に入りに行ったっていい。やることは休日とさほど変わらないのに、ここが船の上というだけで極上な時間を過ごせそうな気がする。


 まず、最近友人に「絶対観ろ」と勧められた『呪術廻戦』を観てみた。Twitterでも度々話題になっているので楽しみにしていたが、もともとアニメを観る習慣がなかった私には正直あまり刺さらなかった。ただ、話題になっているものに触れて自分の経験(経験という言葉を使っていいか分からないほど浅いものだけど)にできただけでもいいだろう。私は人生において「経験」というものに対してかなり重きを置いているので、そういう考えをすることが多い。触れたものが例え自分に合わなくとも、触れてみたという事実が重要なんじゃないか?


 結局5話分くらい観て、それでもやっぱり続きが特に気にならなかったのでそこで視聴を中断した。(もう少し進めばもっと面白くなるぞ、という方がおりましたらご連絡ください。もうちょい観ますので。)


 その後もドラマを見たり本を読んだりごちゃごちゃした後、部屋にいることが飽きて甲板に出ようということになった。甲板は風が強いので、スッピンにコートを着込んで部屋を出た。ドアは風圧で重くなっており、ぐっと押して外に出た。案の定、外は風が強くて寒く「これでこそフェリーの甲板である」とウキウキした。天気がさほど良いわけではなく曇った寒い甲板にわざわざ出てくる変わり者は私のほかに誰もおらず、一面に広がる広くて暗い海を貸し切り状態であった。フェンスの淵に立ち、足元を見るとフェリーの側面にぶつかっでできた白波がざぶざぶと通り過ぎてゆき、爪先をくすぐるような感覚がしてくる。

f:id:my-home-emotion:20210516171455j:image
f:id:my-home-emotion:20210516171500j:image

目の前に広がる海のことを考えている時間は、宇宙のことを考えている時と同じように茫漠とした恐怖を感じてしまう。むしろ宇宙に殺される時は滅多にないだろうが、海は人間を簡単に殺めてしまう分、より恐ろしくて、私は好きだ。


 甲板に出たときは曇っていたが、遠くの海上に光が差し始めた。波がきらきら光っているのが分かる。海と雲の上とをつなぐ一筋の光は、天国へのお導きにも見える。

f:id:my-home-emotion:20210516171537j:image


 寒くて寒くて寒いがどうしても音楽が聴きたくなり、かじかんだ手でAirPodsを取り出し、耳に入れた。なんとなく工藤裕次郎の『葬儀屋の娘』を聴いた。”葬儀屋の娘おまえは泣かない笑わない、花を一つ飾るだけだ”、私は海に花を一輪、放ちたくなる気持ちになった。


 暫く悦に浸って海を眺めていたが、そうしている間も私以外は誰一人甲板には出てこなかった。流石に寒さも限界になり、客室に戻ることとした。


 昔から、フェリーでの楽しみの一つに「大浴場」があった。大型のフェリーで一晩を過ごす経験がある人は分かるだろうが、船で入るお風呂は別格に楽しい。何がそんなに楽しいかというと、お湯がザバザバと揺れるのだ。また大浴場の正面は大きな窓になっており、海の見える景色も素晴らしい。

もちろんお風呂は貸切で、ザバザバ揺れる湯船をちょっとだけ泳いだりした。


 お風呂から上がり、ゆったりしている時に思い出した。下船後の乗り合いタクシーの予約時間って何時だったっけ!?!?!?

 時計を見ると15時半、予約時間は15時。完全に間に合わない。しかも今の時間は案内所が閉まっており、次に開くのは17時だという。完全の完全に間に合わない。自分、本当にこんなことばっかりだ。


 そわそわしたまま17時まで待ち、案内所が再開したと同時に駆け込んで聞いた。「すみません、明日の乗り合いタクシーの予約をしたいのですが、間に合いますかね………?」非常に渋い顔をする係員。コレはダメかもしれない、そう悟ったところ、係員さんは「ちょっと確認しますのでお待ちくださいね」と裏の方へ引っ込んでいった。待つ私。もしダメだったらどうしようか…タクシーを呼ぶか、いや無駄なお金が…頑張って歩くか、いや体力が……。係員が戻ってきた。重大な宣告を受けるかのような気持ちで彼の最初の一言を待つ。「明日、もう1人ご予約の方がいらっしゃるのでそれに乗り合わせてくださいね。前払い制なので200円になります。」

 勝った!!!!!!!!安堵よりも、何かに勝ったかのような気持ちが込み上げてきた。それはこの旅行の成功を約束するかのような勝利であった。


悠々とした気分で部屋に戻り、読書なり映画を観るなりして船での残された時間を過ごした。

明日の下船は早朝、朝の5時半である。2日ぶりの陸地と旅行の始まり想いを馳せた。

 

 

 

うつ病だけど旅行行く

 

皆さんご存知の通り、わたくし自宅はうつ病で療養中の身である。

 

お医者さんから「はい休みなさいね〜」と目の前に置かれた莫大でまっさらな時間と暇に、時折恐ろしくなってしまう。時間が有り余ってしょうがないなんて、社会人としてはありがたいことだし、休むのも仕事のうちとは言うものの、無計画な休暇に焦燥感を感じてしまう。自分は幸い、寝たきりタイプのうつ病ではなく比較的活動的な(?)うつ病なので、毎日何かしら動いていないと気が済まない。

この時間を利用して何かしなければ、何か前へ進まなければ。

 

そんなときに私が思い浮かぶことは一つしかない。1週間以上の旅行である。一つのところに留まるのではなく、毎日どんどん違う場所へ訪れる旅行。

 

誰も自分のことを知るはずのない土地に赴くのは非常に気分の良いことだ。降り立った途端、少しひんやりした気持ちになる。

 

また、旅の先々での強烈な記憶は、自分の養分となって後々の人生において勇気をくれ、自分の人生に対する信頼となって自分を護ってくれる気がする。

 

 

 

例えば、

下関(山口)で、海峡を眺めることができるゲストハウスに泊まり、コンビニで買ったスト缶を屋上のテラスでチビチビと飲んだ時のこと。月が見え隠れする夜、雲間から月が見えた瞬間、その時に聴いていた君島大空が沁みて沁みて感動して泣いてしまった記憶。

f:id:my-home-emotion:20210304194837j:image

 

 

あるいは、就活が終わった直後の四国一周旅行で、夕暮れのフェリーの甲板に出た時のこと。エメラルドグリーンみたいな空の下、要らないものを海にポイポイ投げ捨てるように「ハイおしまい!」と就活サイトのアプリを一斉に削除した清々しい記憶。f:id:my-home-emotion:20210304200232j:image

 

 

また、五島列島(長崎)の福江島のゲストハウスにて、閑散期だったので事実上の“一棟貸し切り”状態になってしまった時のこと。近くのスーパーで買ってきた近隣産の豚肉を備え付けの調味料で適当し、静かなキッチンの中、気分が良くなって爆音で音楽を流して一人踊りながら食べた楽しい記憶。

f:id:my-home-emotion:20210304195419j:image

 

 

まだまだある。

しまなみ海道をサイクリングしていたら生垣に突っ込んで顔面に傷をつけた記憶、雨の降る萩の静かな喫茶店で出してくれた温かいみかんジュースの甘酸っぱい記憶、秋田の海沿いを走る電車で、太陽が海に沈んでゆく様を見届けた記憶、、、どれも自分が一人旅を重ねてゆく中で粛々と貯めてきた大切な記憶である。

 

その時その場所だからこそ強烈に残った、私にしか分からないそんな記憶たちは、その後の私を確実に勇敢にしてくれている。

私にとっての一人旅は、そのような記憶を集めるための手段なのである。

 

さて、私はこの文章を北九州に向かうフェリーの中で書いている。また東京へ戻ってくるのは8日後であるが、その間に私は大切な記憶 を重ねることができるのだろうか。うつ病が発覚してから初めての旅行で、休職中の今だからこそ見つけられる“瞬間”がきっとあるはずだ。だからこそ今、私は旅行に行く。

非常に楽しみである。

 

 

それでは行ってきます。

 

 

雪が降らなかった日

f:id:my-home-emotion:20210112220010j:image

今日、

平年より9日遅く、昨年より8日遅い初雪が観測されたとウェザーニュースが発表した。別に雪に対して特段良い思い出があるわけではないのに、意味もなくワクワクしながら窓を開ける。

 

だが、外はただただ極寒な空気が広がるだけだった。残念ながら私の区は雪ではなく雨だったらしい。もしこれが雪に変わったら、その初雪を一番に知らせるのは誰だろうか。「雪が降ってるよ」と真っ先に言いたくなる人は、そういえば毎年違った気がする。

 

雪の降らないベランダに用はないので、寒い寒いとボソボソ言いながら窓を閉める。暖房が暖かい。「いつでも暖かい部屋がある」それだけで幸せなはずなのに、我々はこれ以上何を望むというのだろうか。

 

夏に麦茶を作って以来、使っていなかった2ℓのプラスチックのボトルを出したら、知らない間にヒビが入っていた。

 

もし心が病んでいるときだったら、こんな些細なことでひどく落ち込む気がするが、今の私は比較的健康なので落ち込まずに済んだ。良かった。

 

ギリギリ使えるか使えないかで言ったら、恐らく「処分」という選択をする人の方が過半数な気がする状態だが、私はイケる気がしたのでそのまま使用することにした。

 

そんなに美味しいとは思わないが、何となくお洒落な人が飲んでいそうだからという漠然とした理由で普段からルイボスティーを入れる。最初は薬草臭くて飲み慣れなかったが、今ではだいぶ飲めるようになった。だが依然として美味しいとは思わない、麦茶とか紅茶、なんなら水の方がよっぽど美味しい。ちなみに一番好きなのはコーン茶である。なのに何故わざわざルイボスティーを飲んでいるのか、私にも分からない。消費者はたびたび理解のし難い行動を取るものである。

 

お湯を沸かしつつガスコンロの火で少しだけ暖をとった。全然関係ないが、海苔にごま油を付けてフライパンで少し焼くと韓国海苔になるというが本当だろうか、今度やってみようと思っているうちに、やかんが音を立てて吹きこぼれる。

 

熱湯を注ぐと2ℓの熱々ルイボスティーが出来上がった。お気に入りの無印の耐熱ガラスのマグに注ぐと、ボトルの割れ目からジョボジョボと容赦なく溢れる。この数分で、ボトルが割れていたことをすっかり忘れてしまっていた。私は他人と比べて恐ろしく記憶力がない。熱湯が止めどなく床に滴れ、冷えてゆく。私は気にせずマグに注ぎ続ける。マグと床、1:1くらいの比率でそれぞれの場所に注がれる。マグがいっぱいになった頃には、ボトルの3分の1もルイボスティーが減っていた。マグに収まった方の“運のいい”ルイボスティーは、やはり自分の味覚としては美味しいとは言えないまでも「これを美味しいと思う人の気持ちは分からなくもない」という味であった。

 

 

その後は、特に理由はないが夜が更けるまでマイケル・ジャクソンばかりを聴いていた。

 

 

 

 

帰る場所がない話

f:id:my-home-emotion:20210104213406j:image

 

晦日、実家に帰った。

 

あちら側にとって、「私が帰省しない」という選択肢はどうやら残されていなかったようなので、まあ美味しいものでも食べられれば…と、学生時代は滅多に乗らなかった特急列車で地元茨城へと帰った。

 

上京5年目にして、家族や親戚が聞く「元気してるか?」という会話に、本当の答えは求められていないのだと知る。私の安否は恐らくどうだっていい、彼ら自身が安心したいのだ。「精神がめちゃくちゃ病んでしまいました〜」という言葉をグッと飲み込んで、「まぁぼちぼちね」という生温い答えを用意する。

 

 

帰省中、北海道に住む親戚から電話があった。

案の定聞かれた「元気か?」という質問に、私はうっかりと「かなり大変で擦り減っている」と答えてしまった。私が東京で暮らしていることをよく思っていない親戚は、そこに集まっている全ての人間に「私がどうやら上手くいってないようだ」と言いふらすだろう。もう恐らく帰ることのない場所、何とでも言えばいい。

 

私と北海道にいる従姉妹は、何もかもが逆であった。他人に取り入るのが得意な従姉妹はどの親戚とも上手く会話していて、一年に一度会いに行く度に、私にはそれが絶対できないと幼い頃から感じていた。

 

従姉妹は職場でも気に入られており、上手く“社会人”をこなしていると親戚づてに聞いた。一つ上の彼女は地元を愛し、家族を愛し、実家暮らしをしている。きっと地元の縁に囲まれながらその一生を遂げるのだろう。

 

「あの子は都会に出て名のある大学まで出ているのに、あまり上手くいっていないらしい」と、きっと私は北の土地でいつまでもネチネチと言われ続ける。それはそれで面白い気もする。

 

電話を切った後、「私には私の生活があるのだ」と自負するように、恋人からもらったばかりの香水を付けた。田畑に囲まれた田舎に似合わないその幾ばくか都会的な香りは、私への慰めとなって寝るまで残り続けた。彼は今年は実家に帰らないと言った。

 

 

もう何年目かわからない「芸能人格付けチェック」、父が毎年楽しみにしている正月番組なので、私も流れで視聴する。「インターネットが普及してから嘘を嘘と楽しめる人が減った」という誰かのツイートを思い出す。今年もGACKTが連勝し続けているらしい。

 

父が「この芸能人は知らない、誰なんだ、名前も聞いたことがない」と独り言を言う。あらゆる芸能人に向かって、何度も何度も言う。

 

実家での時間はそれなりに楽しい。しかし、ここは自分が生活の中で大切にしている何かが「停滞」している。ここにいたら確実に頭がおかしくなる。そう思った瞬間、ここはもう、私が帰る場所ではなくなったのだと気付いてしまった。それは哀しい瞬間であり、信頼できるものをまた一つ失った瞬間でもあった。

 

 

 

帰り際、私を駅まで送った父は「困ったら何でも言うんだぞ」と言い、私は「分かった、ありがとう」と返す。そして逃げるようにして東京に戻ってきてしまった。本当に困った時、私は誰に頼るのだろうか。それとも誰にも頼らず、ひっそりと自死を選ぶのだろうか。

 

 

東京に戻ったら、地元よりも圧倒的に汚いはずの空気が心地いいものに感じた。ここはカルチャーが生きて、動いていると実感した。

 

 

流行に追いつくのが全てではないと言いつつも、それなりに追っていないと知らないうちに置いてけぼりになってしまうこの空気に、私は最近やっと慣れてきた。

 

この土地が自分のことを両手を広げて迎え入れてくれているとは到底思えないが、その分この土地には「しがらみ」がない。私なんていてもいなくても、ここでの社会は平気で回っていく。その無愛想さに寧ろ私はホッとする。

 

 

上京5年目ともなれば、ここに来たからといって「何者にもなれない」ということは分かりきってしまった。それでも何かがあるかも知れないと、まだ少なからず期待を抱いてしまっている青二才で恥ずかしい自分を抱えたまま、「暫くはここでやっていくしかないんだなあ」と最近見つけたお気に入りのカフェでこの文章を書いている。

 

 

 

 

 

市民プールに行きました

f:id:my-home-emotion:20201031113805j:image

※参考画像です

 

 

f:id:my-home-emotion:20201031113907j:image

みなさんは、このようなツイートを見たことがおありだろうか?そう、自宅は今、水泳にハマっているのである。

 

 

 

先日、約10年ぶりにプールで泳いだ。

 

 

私はいわゆる運動嫌いの運動オンチだ。

小学生の時から万年ショートヘアだった為、風貌だけはスポーツ少女な感じだったのだが、マラソン大会で何十人もいる中、ビリから2番目を取ったこともある。逆にどう走ったらそんな順位になるんだ?

球技も酷いもんで、ボールを投げたら足元のすぐそばに落ちているなんてこともある。四肢の使い方がおかしいんじゃないか。

 

 

そういうわけでスポーツの類いがからっきし駄目なのだが、小学校時代の数年間スイミングを習ってたおかげで水泳なら多少はマシであった。とはいえ出来ない人よりかはまぁ出来る、程度ではあるが。

 

(ちなみに習い事のスイミングは鬼コーチのせいで小6の時に辞めた。頭が痛いと申告したにもかかわらず「それは嘘だろ」みたいなことを言って強制的に泳がせられたのマジでアイツなんだったんだ。)

 

スイミングが得意か否かは別として、「泳ぐ」という行為は私が唯一楽しいと思える運動ではあった。

あの巨大な水の塊に埋もれて、数百メートル、下手したら数キロも地面に一切足をつけずに泳ぎ続けるというのは、えも言われぬ心地よさがあった。

 

小6でスイミングを離れてからはプールに入るという機会は一年に一回あるかないか程度で、しかもガッツリ泳ぐわけでもない。泳ぐ楽しさも歳を重ねるごとに段々と忘れていった。

 

 

 

そして23歳夏、

突然「プールでガッツリと泳いでみよう」

とそういう気になった。

 

私はふざけたビキニしか持っていなかったので、勤務中だったが即座に「フィットネス水着10点セット」を楽天で見つけて購入した。3980円である。正直言うと10点も必要なかったのだが、なんか面白いので買ってみた。スマホジップロック?とかもセットになってるらしい。いつかサマーランドとかに行った時にでも使おうと思う。行かない気がするけど。

 

届いた水着は思ったよりかっこよく、着用してみるとなかなかサマになる。約10年ぶりに泳ぐとは思えない姿になった。何事も形から入るのは大事だ。

 

何事も形から入るのは大事だし、何事も気持ちが冷めないうちに始めるのも大事。服の下に水着を着込み、徒歩20分のところにあるプールへと向かう。

 

ところで市民プールというと皆さんはどういうものを想像されるだろうか。私の地元の市民プールはそれはそれは質素なもので、コンクリートの穴ぼこに水を溜めてみましたみたいな風貌である。もちろん野外。夏場しか開放していないので、小学生のころは7月に入るとプール開きの日を心待ちにしていた。たった200円で一日中いられるその場所は、夏休みに行くあてのない田舎の子供にとって大切な場所であった。

 

そして私が行く市民プールはというとそれはそれは立派なもので、ジムのプールと同じような形ものであった。しかも利用料は大人でもたったの400円。都会の市民プールはこんなにも立派なのか…?公式ホームページを見た私は思わぬところで軽くカルチャーショックを受けてしまった。

 

(先日このことを別の人に話したら「今どき市民プールはみんな屋内だよ」と言われて悲しくなってしまった。「うちの地元のプールはコンクリの塊(野外)だよ!」という人は一緒にこの悲しみを分かち合おう)

 

初めての屋内市民プールに意気揚々と出掛けたはいいものの、入り口の自動ドア(入り口が自動ドアなんて!)に入ると係員が何やら困り顔。私の元に駆け寄ってきたその人の話を聞くところによると、短縮営業により今入っても10分ほどで出なきゃいけなくなるとのことだった。

 

完全なる盲点!

今はまだ19時半。ホームページ上では確かに22時までとなっていたのだ。まさか20時までになっていたなんて、、、!おのれ憎きコロナめ。

 

 

たった10分の為に体を濡らすのはシャクなのでこの日は大人しく帰ることにした。水泳チャレンジ失敗である。憧れの市民プールに追い返されるように帰路についた私は、ただの「水着を中に来て散歩しただけの人」になってしまった。非常に悔しい。

 

 

このままではフィットネス水着10点セットが虚しくなってしまう。数日後、私は市民プールリベンジをした。今度は営業時間もしっかり把握した。さあバッチリである。

 

 

どうせ歩いてちょっとの場所だし…と気を抜いた服装で家を出た。泳ぐということもあり、もちろんノーメイク。しかしそれがいけなかった。

 

家のドアを開け、マンションのエレベーターに乗ろうとすると、先に男女がエレベーターを待っていた。その男女はとてもお洒落で、身なりに気を使っているのだろうなということは一目で分かった。

 

怖い!私は突然怖くなった。

怖くなって「おっと忘れ物が…」というフリをして玄関に戻った。情けない。情けなすぎる。

 

何も、エレベーターで居合わせたからといってその男女に攻撃されるわけでもあるまい。一体何を怖がってるんだ。本当に情けない。私は本当に小心者なので生活の中でこういう場面が尋常じゃなく多い。他人の目を気にしすぎているのだ。だから生きにくいんだよ!!!!!!

 

ちゃんとお洒落をして化粧して“武装”していればこんな気持ちにはならなかったはずだ。私にとって、お洒落は自分を生きやすくする為の術でもある。

 

 

 

 

一旦玄関に戻った私は、あの男女を乗せた先発のエレベーターが地上に着いたであろうタイミングを計らって再び家を出た。今度は誰もいない、大丈夫。

 

 

ワシワシ歩いたらあっという間にあの自動ドアの前になっていた。係員も今回は歓迎顔。

 

 

上に着ていた服を脱ぎ捨て、水着姿でプールサイドに躍り出た。あれほどまでに渇望していた水の塊を目の前にして、私は興奮していた。

 

 

レーンは上級コース、中級コース、初級コース、歩行コース、フリースペースに分かれている。

ちなみに中級以上は25mを立たずに泳ぎ切れることが条件であった。

 

この年齢になってどれほど泳げるのかは未知数だったが、流石に25mを泳ぎきれないほど鈍ってはいないだろうと、一旦中級コースで泳ぐことにした。

 

泳ぎ方は何でも良かったが、クロールで泳いでいる人が圧倒的に多かったので手始めにクロールをすることにした。

 

まず水に足をつけ、水に慣れるために頭の天辺までじゃぼんと潜った。微かな塩素の匂い、大粒な泡が弾けて消えゆく音、底のなめらかなタイルの感覚。

もうこれだけで今日は満足できるほど、プール特有のあらゆる感覚を一気に味わった。

 

プールの底から足を離し、思いっきり蹴伸びをして泳ぎ始めた。

 

 

 

待ってクロールってこんなに疲れたっけ?

先程まで全身で味わっていた感覚が全て消失するほど水を掻いて進むことに精一杯で、正直楽しさを感じる余裕なんてなかった。

 

プールを往復して50mを泳ぎ切った頃には「もうこれ以上泳げません」というほど息が切れてしまっており、私は絶望してしまった。

 

 

(あの頃の泳ぐことへの悦びを享受することは不可能になってしまったのか……)

 

市民プールが、ただの池に見えてきた。

「もう帰ろうか」とまで思ったが、せっかく来たのにクロールしかしないのはもったいない。クロールを泳ぐ人が大多数の中、平泳ぎをするのは少々恥ずかしい気もしたが、一番好きな平泳ぎをすることにした。

 

 

 

 

泳ぎ始めること数十m、

平泳ぎにしてよかった!!!

水泳ってめっちゃ楽しい!!!!

 

水泳の悦びが蘇ってきた。

楽しい。泳ぐの楽しすぎる。

 

 

指をすり抜けて形を変えゆく水は、まるでよくできたCGのように滑らかで清らか。無限にある泡は天井の照明を受けて銀色の光を放っている。さっきまではただの呼吸を塞ぐ液体だったはずの水が、世界の美しさとなって一面に広がっているではないか。

 

 

 

なんか色々あったけど、やっぱり市民プールに来てよかった。そんな感じで現在私は市民プールに魅了されている。

 

 

 

 

旅行記 序章

 

f:id:my-home-emotion:20201007190215j:image

「生活のために仕事をしているのか、仕事のために生活をしているのか、わからなくなってきてしまったんです」

 

そう言いながら会社の社長の前で大号泣したら休みをくれた。そこで、急ではあるが旅に出ることにした。

 

さりとて行くあては無かった。

とにかく遠くへ行きたかった。

見たいもの、やりたいこと、何も無かった。

あ、海は見たかった。

いや、むしろ海があれば何処でも良かったと言っても過言ではないかもしれない。

 

私は海が好きだ。

楽しくて悲しい、海が好きだ。

 

最近の私は自分に自信を失くしてしまっているので、ちょっと海でも眺めて自分を見つめ直して来たらいいんだと思う。

 

そんなわけで、海がある土地に行くことが絶対条件となった。

 

 

とはいえ日本は島国だ。

むしろ海に接していない県の方が少ないんじゃないか?(今調べたら、47都道府県もある中でたった8県しかないみたいです。日本、海すぎるだろ)

 

ざっくりと「遠く知らない街に行きたいな〜」

という願望があったので、

めっちゃ南かめっちゃ北という要素に絞られた。

 

 

ぶっちゃけ言うと、

本当は石垣島に行きたかった。

 

離島なんていつでも行きたい。

なんなら休みが決まった直後からピーチ航空で東京→石垣島の航空券を調べていた。

 

しかし天気が悪かったのだ。

そうなるとこの辺りの離島群は大体天気が悪いということになる。南の離島は断念。私はどうしても晴れの海が見たい。これはあくまで持論なのだが、山は晴れでも雨でも曇りでもそれなりの雰囲気を醸し出してくれるが、海はそうはいかない。晴れの海と雨の海とでは景色を見た時の感動が圧倒的に違う。海は手厳しいのである。

 

それなら、全国の天気予報を見て晴れている場所を目指せばいいのでは?名案である。早速、Googleの検索ボックスに「全国 天気」と入力し、検索した。どうやら本州以北は全体的に天気が著しくないらしい。それなら北だな。そんなざっくりとした感じで北に行くことにした。

 

北といえば、私がいま読んでいる小説の舞台がちょうど函館だった。ちょっと前に読んでなかなか琴線に触れた小説も函館が舞台で、津軽海峡が印象的な場面で使われていた。

辻仁成の『海峡の光』は色々と考えさせられる良い作品なので気になる方は読んでみてください)

 

津軽海峡を見に行くっていうのは良いかもしれない。

私は、津軽海峡というものになんとも言い難いロマンを感じている。それこそ昔は青函トンネルがある訳でもなく、北海道と本州とをつなぐ唯一の手段が津軽海峡を渡る船であった。今でこそフェリーなんざポンポンと乗れるものだが、その昔はそうはいかない。高いお金を払って津軽海峡を渡るということは、一念発起して行う、人生の一大イベントであったという。

 

はァ〜ロマンである。

人生の岐路に立たされている今の私が自分を見つめ直しに行くのにはうってつけの場所なのではないか。

 

青森→函館と行こう。

そう心の中で決めた頃には夕方の6時であった。

 

この日、私は「大事そうで大事じゃない、いや割と大事だな」みたいなプレゼンをなんとか成功させたため、なんかもう仕事はもういいや、って気分でこの時間から勝手に自由の身になっていた。あの残業地獄で有名な私が、である。

 

ところで話は変わるが、この日のプレゼンは上司と部長にメチャクチャ褒められた。練習したんだから当たり前の話である。本当にやめてほしい。本当の私は全く何もできない人なのに、会社で勝手に「デキる新卒」みたいな偶像を作り上げられていることが心底辛い。頑張ったも何も、やらなきゃならない状況に立たされたからやっているまでであって、真の私はもっとクズ扱いされて然るべき人間なのである。期待のハードルが上がるだけである。いつかボロが出るのが恐ろしい。もっと下手にやれば良かったとさえ思う。

 

 

 

そんなことはどうだっていいね。

といことで速攻で本屋さんにガイドブックを購入しに向かった。旅行のガイドは断然、ネットより本の方が欲しい情報がまとまっていて良い。ネットの旅情報で有益なのは誰かのブログくらいだ。

 

 

函館、青森のガイドブックをいくつか読んでみて私は思った。函館はいつか誰かと行きそうだな。別に今じゃなくても良いのではないか。

観光の内容を見ても、一人で何かを眺めてボーッとするよりは街をサクサクと散策をする感じで、なんとなく一人旅向けではない気がする。。。

 

そんなわけで、私は青森に向かうことにした。

 

 

 

 

 

少し話は変わるが、

ここのところ、ゴミか人間かで言ったらどちらかと言うとゴミ寄りの生活を営んでいる私だが、

そんな最近の私を癒してくれるものは3つある。

 

飲酒、読書、音楽

 

この3つだ。まあ、生活が荒んでいようがいまいがこの趣味は変わらない気もするが。

 

そこで、私はふと思った。

これらを、海の見える旅館で遂行したらメチャクチャ楽しいんじゃないか?

 

あーーーーそれだ。

波の音を聴きながら飲酒読書音楽。

私はもう頑張りたくない。

行きたい場所で、本当にやりたいことをやる。

旅行先だからといって何かを見に行ったり、そこでしかできない体験をしたりと頑張る必要はないのだ。むしろ海の見える旅館で飲酒読書音楽こそが、“”そこでしかできない体験”なのではないか。

 

 

もうダメだ。

こうなったら今から行きたい。

私の頭の中では、明日の私はもう海を眺めているはずなのである。

 

持ち前のフットワークの軽さにより、

3時間後に出発する青森行きの夜行バスを予約した。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は今“海の見える旅館”にてこれを書いています。

そろそろ温泉に入りに行きます。

元気があったら本編も書きますが、あまり期待しないでください。頑張らない旅行なので、、、すみません。序章で終わる旅行記とか最悪でウケるな。

 

 

それでは。

 

 

 

 

喫茶店にて

f:id:my-home-emotion:20200615000914j:image

①歩いてちょっと遠くの無印に行く

②花瓶を買う

③喫茶店ぽい喫茶店でオリジナルブレンド的なコーヒーを飲みながら読書する

 

今日という休日を有意義に過ごす為

私が私に課したタスクだった。

 

 

正午過ぎ、昨夜録画した漫才番組(爆問と霜降り明星のやつ)を観て「まあ、うん」くらいの感情のまま一旦中断し、家を出た。

 

 

混んでいないといいな、雨だし、という淡い希望を抱いて、最寄りの無印良品より少し遠い無印良品に行くが、思ったより混んでいた。

 

「あー、あれはいわゆる“無印良品みたいな男性”だな」

「あー、あれはいわゆる“無印良品みたいな女性”だな」

 

などと赤の他人に対して謎のジャッジをしながら欲しい商品をカゴに入れる。しかし買い物カゴとは非常に邪魔なもので、これを持っているだけで購買意欲が削がれる。(理由:片手が塞がっているので商品を手に取るのが億劫になるから)

 

お目当ての商品とレトルトのカレーと、全く買うつもりのなかった多少のお菓子を放り込み、レジに並ぶ。

 

お会計のとき、スタッフに「雨カバーをお掛けしますか?」と聞かれ、何故か迷った振りをしながら「え〜と、、すみません、お願いします」と答える。ちなみに迷った振りをした意味は全くない。

 

 

私も雑貨屋店員をしたことがあるので分かるが、客一人一人の紙袋にわざわざ雨カバーをかけるのは面倒だ。

 

雨カバーはマニュアルとしての対応なので優しさでも何でもないと分っていながらも多少の優しさを感じつつ、「面倒くさいことさせてしまった、、すいませんね」と思いながら待つ。

 

 

しかし「ありがとうございました」と受け取った紙袋に雨カバーは掛かっていなかった。

 

 

私も雑貨屋店員をしたことがあるので分かるが、雨カバーは忘れがちなのである。(いや、忘れがちじゃない人の方が多いとは思うが)

 

「わかるよ、忘れちゃうよね」と、

何も言わず店を出た。

 

次のお客さんで雨カバーを指摘された時、「マズい、さっきのお客さんに雨カバーかけ忘れた」と思い出してしまうかもしれない彼の心の痛みを想像してみたりする。

 

 

そしてタスク②の花瓶は結局見つからなかった。

「ネットで買うか」とサクッと諦め、

タスク③の喫茶店ぽい喫茶店に向かう。

 

 

そもそものそもを言うと、

正直、私は喫茶店が苦手である。

 

 

意外でしょうか?

それとも、意外と思えるほど、私のことを知らないでしょうか?

 

 

そうですよね

それでいいんですよ

 

 

でも、苦手はちょっと語弊があるかも。

単純に慣れていないというか、喫茶店で本当にホッとしたことがないというか。喫茶店好きのフォロワーが多い中でこんなことを言うのは恥ずかしい限りなのだが、どうしても「ホッとしたフリ」をしてしまう。

 

どうしたもんかね。

 

それはそれとしても、「喫茶店に行きたい!」という気持ちに偽りはないので、事前に調べていた喫茶店へと向かう。

 

少しでも落ち着ける空間だといいなと祈るような気持ちで、入り口へと続く階段を登る。少し中を覗くと、有名店&お昼時ということもあり満員。店内はガヤガヤ。

 

素敵な内装で雰囲気も良いが、直感で「ここは今の私が求めている空間ではない」ということを察し、店員に見つからないうちに踵を返して店を後にした。

 

 

なんかもういっかな〜。

やっぱり喫茶店は私に向いてないのかもしれない。

家で無印のカレーでも食ってるのが自分の性に合うのかも知れない。帰ろ帰ろ。

 

そんなことをブツブツ言いながら(マスクをしているのでブツブツ言っていてもバレません)地下鉄に向かう。

 

ただ、そうすると張り切ってカバンに忍ばせた本(二冊も!)が泣いてしまう。外の世界を見せてくれと泣いてしまう。

 

でも帰るんだよ、と。

ごめんな、と。

本たちの悲しみを振り切るように、あと外にいるとムシムシして普通に苛立つので足早に駅に向かおうとすると、不意に良さげな喫茶店が目に留まる。

 

直感的に「ここだ!」と思い、重めのドアをカランコロンと開ける。

外の湿気に嫌気がさしていたので、ドアの向こうに涼しくてカラッとした空気があると期待していたものの、店内は思ったよりもジメっとムシっとしていた。

 

若干の裏切りを抱えつつも、ショーケースのホールケーキが可愛らしいので「あ、一名です」と伝える。

 

 

床やテーブルなど、店内のあらゆる木材が吸収できるだけの湿気を吸収して、それでもなお吸いきれなかった湿気を放っているようなそんな空調の中、「自分の選択は本当にこれで合っていたのか」「やっぱり大人しく帰った方が良かったのではないか」と、たかが喫茶店にしては1杯の値段が異様に高いコーヒーのメニューを眺めてグダグダと考える。

 

 

私は、常に私の選択に自信がない。

 

 

コーヒーだけにするか、せっかくだからケーキセットにするか、、、、う〜ん、、、

 

さっきから店員さんがこちらの様子を伺っている。

すみません、優柔不断なもので。

 

結局、誕生日(4月!)にケーキを食べてない気がするからという謎理論でケーキセットを、しかも一番高いケーキセットを選んだ。

 

仏頂面でもなく愛想が無いわけでもない、ただただ真顔の、それでいてとても素敵な店員さんが注文を取りに来た。

 

接客態度としてそれでいいのか?というくらいの真顔だった。制服の黒いワンピースと白いエプロンがよく似合っていた。私が男性だったらきっと恋に落ちていただろう。

 

きっと彼女目当てで通っている男性客も多いのでは?だとしたらライバルだらけだ、、、そんな気持ち悪い想像を繰り広げてしまうくらい、それくらいに魅力的だった。例え真顔でもね。

 

 

隣の席は70代くらいのおじさんおばさんグループで、何やら予定を立てている。観光の計画かな?まあ何でもいいです。

ただ、もう少しお声のボリュームを下げていただけると嬉しいです。

 

本当は店内の心地よいBGMを楽しみたかったが致し方ない。読書に集中したいので全ての雑音を遮断すべく、イヤホンを耳に突っ込む。

 

もぞもぞとやっているうちに、早々とコーヒーが来て、ケーキが来た。まだ1ページも進んでいないが一時中断。ケーキはショートケーキで、私が一番好きなケーキだ。ショートケーキあるある「天辺のイチゴをどのタイミングで食べるか」を気にしなくていいほどにイチゴがたっぷりと乗っており、ここで初めて、「この店に来て良かった」と自分の選択に満足する。

 

コーヒーを飲みケーキを食べ小説を読む。

コーヒーを飲みケーキを食べ小説を読む。

これを幾度か繰り返した頃、隣のおじおばグループが席を立つ。

 

隣のざわつきが無くなるとなると、それはそれで少し寂しいかもと思ったりした。

まあ、隣の席がどうであろうと私には関係のないこと。誰が去ろうが誰が来ようが気にすることではないね。と再び小説に集中する。

 

 

 

 

 

「あなた、なかなか渋いの読んでるわね」

 

 

 

 

は、、、、、?

おじおばグループの一人が

私に、明らかに私に声をかけている。

 

 

その年齢だとかなり勇気がいるのでは、という丈のタイトスカートにデニムジャケットを羽織った、サッパリとした短髪の、他人から見てもかなり「かっこいい」部類に入るおばさん、いや、おばさまと言った方が相応しいかもしれない、そんな人が今私に話しかけている。

 

 

なんなんだ?

とりあえずイヤホンを外し、なんだがよく分からないまま小池真理子の『恋』の表紙を見せながら

「ええ、、まあ、、そうすかね、、笑」とニヤニヤヘラヘラと答える。

 

 

「私もむか〜し読んだわ」「まだ序盤なのね?それね最後ビックリするから楽しみにしてて」「懐かしいわ〜」

 

 

ハァ、文学って凄い。

世代がこんなにも違う者同士を、しかも過去と現在を、一瞬で繋げてしまう。

 

 

「あなた、お時間大丈夫かしら?」

 

私が文学の普遍性についてしみじみと感動しているうちに、おばさまがサッと私の隣に座る。

 

店員がさっきから、なんだ知り合いだったのか?と懐疑的な目でチラチラと見てくる、そんな視線をものともせずに、おばさまは話しかけてくる。

 

 

「学生なのか」

「どうしてそんな古い本を読んでいるのか」

「好きな本は何か」

そんなことを矢継ぎ早に聞いてくる。

 

 

 

「学生ではなく新社会人であること」

「古本屋で、しかもランダムに買うから、色々な年代のものを節操なく読んでいること」

「色々ありすぎてパッと思い浮かばないけど、最近読んだ中だと三浦綾子の『氷点』が良かったこと」

 

などと私は答える。

おばさまの年代を考慮した上で『氷点』をチョイスしたのは、我ながらナイスだった。案の定、「懐かしいわね、わたしも昔読んだわ」という言葉が返された。

 

 

本の話題に飽き足らず、コロナのこと、働き方のこと、これからの日本の未来のことなど、大きな話題に移り変わっていった。

私は、なんだか私の世代を試されているような気がして、世代の代表として精一杯答える。

 

 

世間話にしては大分たっぷり話した後、

最後におばさまは聞いた。

 

 

 

「では最後に一つ質問ね。

あなたにとって“成功”って何?」

 

 

 

私にとっての成功。

成功って何だろう。

 

 

私はこの質問に面食らってしまった。

 

 

バリバリ昇進する自分も、

結婚して幸せな家庭を築く自分も、

正直どんな自分も描けなかった。

 

 

「え〜、、いや〜〜、、、」

 

 

ひとしきり考えた後、なんとか捻り出した答えは「生活できるだけのお金を稼ぎながら好きなことして暮らす」いうことだった。

 

 

 

そう答えてみたはいいけれど、

そもそも好きなことって何だろう。

私の好きなこと…?

 

 

釈然としない私を置いて、おばさまは「またどこかでお会いできたらお話ししましょう、お元気でね」と去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを読んでいるあなたは、答えられますか?

自分の思う“成功”について。

 

私は、恥ずかしながら答えられなかった。

 

 

 

もう二度と会えないと思うけど、もしも次におばさまに会うことができたら、もう少しまともな答えを言えるようになろう。その時までに、もっと自分の将来と向き合おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

。。。。そんなことがあった、とあるジメジメした梅雨の日のお話でした。ちゃんちゃん。