電車とかけてTwitterと説く

 

 

電車でTwitterをしていて、ふと電車とTwitterは似ているなと思った。

 


例えば、電車は匿名性の高い乗り物だと思う。隣の人が誰なのか、どんな名前でどんな職業でどこに住んでいて…等いちいち気にしない。電車に乗ってしまえば、お偉いさんもただの学生も、皆んな数百円を払っただけのただの人間。

 

 

そして乗客達は各々のタイミングで乗り、各々のタイミングで降りる。Twitterもそうだ。ユーザーは好きなタイミングでログインし、用事が来たらログアウトする。朝と夜の人口が多いのは、電車もTwitterも同じことだ。

 


あるいは、朝の電車など、ある程度車両のメンバーが固定されてくる時もある。すると暗黙の了解的な、謎の連帯感が生まれる。直接的な会話を介せずとも、そこには明らかな「認知」がある。これはTwitterでいうフォローフォロワー関係に似ている気がする。

 

 

また、例えば、ずっと一人で乗っていた女子高生の隣に同じ制服の男の子が座るようになり、日を追うごとに仲睦まじくなっていく過程を目撃すれば、ちょっと喜ばしく思うかもしれない。Twitterでも見ず知らずの人間の恋愛の行方に、勝手ながら一喜一憂する時があるかもしれない。どちらも赤の他人ながら、彼らの生活に少しばかり思いを馳せてしまう。

 

 

さらにはこんな時もある。

 


いつも一緒の車両だったあの人が、ある日を境にぱったり乗車しなくなる。時間をずらしたのか、車通勤になったのか、はたまた引越したのか。

 

いつもTLを賑わせていたあの人が、急に呟かなくなる時がある。別のアカウントに移行したのか、インスタに主軸を置くようになったのか、はたまたTwitter自体を辞めてしまったのか。

 

 

所詮は赤の他人、実生活では決して交わることのない人、そうは言えど少しばかり寂しくなる。