“コロナ文学”ってあるんですかね

 

ふと考えた。

 

第二次世界大戦下において戦争文学が誕生したように、東日本大震災の後に震災文学が誕生したように、センセーショナルな出来事には文学が付き物である。そして後世の人々は、時として文学を通じて当時の出来事について知り、思いを馳せることになるだろう。

 

それならば、コロナ禍という世界規模かつ歴史上類を見ない災難も、いつかは文学として後世にその状況が語られることになるのではないか。

そう考えたら、私は不謹慎ながら少しだけ興奮してしまった。

 

もしくは、もう既に描かれ始めているのではないか、そう思って「コロナ 文学」とググってみたものの、流石にこの短いスパンでは作品として出されているものは無かった。(当たり前だ)(ブログ単位ではあるかもしれないけどね)

 

しかし、『文藝 夏季号』において、「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」という特集を見つけ、読んでみた。

 

(現在無料公開中らしいので良かったら読んでみてください http://web.kawade.co.jp/bungei/3466/

 

 

内容としては、ノーベル文学賞有力候補の中国の作家が、災厄下における作家の使命を述べてきる。

 

彼は、第一次世界大戦第二次世界大戦中にペンを執った作家たちについて触れた後に

「では、次に何を書くべきなのかという順番が中国の作家に回ってきた」と言う。

 

中国と日本とでは多少スタンツの違いはあれど、この状況について描けるのは、今このコロナ禍の真っ只中にいる我々しかいないんだと、当たり前ではあるがそんなことに気付かされた。

 

 

そもそも私が、将来的に誕生するかもしれない“コロナ文学”に興味を抱いたきっかけは、外出自粛という誰もが迷走している生活の中で、自分以外の人々が何を考えて過ごしているかを知りたいと思ったからであった。

 

 

なるほど。

戦時中と違い、IT革命を経て誰もが発信者になれる時代において、“コロナ文学”の担い手はなにも作家には限らないのだ。むしろ、作家たちが“コロナ文学”を作り上げていくのをただ待っているだけでは駄目なのではないか。

 

 

そんな大層なことを考えたりしてみたので、“文学”とは言えないまでも、自分なりにコロナ禍における自分の生活を見つめてみようと思う。

 

 

 

と思ったけど、ここまで書いて若干飽きてきたのでまた今度にする。

 

すみません。

ではまた。

 

 

 

 

 

 

夜に聞こえる車の音

 

 

2020年2月24日、午前3時15分

 

アルバイトの最後の出勤でもらった花束を全てバラし、天井に麻の紐を引っ張り全て干した。

 

エアコンの風がよく当たる位置、1週間もすればそこそこ乾いているだろう。明らかにドライフラワー向きでない、水を含んだ花はマグカップに水を張って挿した。大きい花なのでマグカップから盛大にはみ出ている。明日サイズに合った花瓶を買いに行く。紫色のヒヤシンスだ。色は、私をイメージしてオーダーしてくれたという。

 

花を干し終え、電気を消して布団に潜るとマンションの近くを通る首都高から大きなトラックが通る音がした。

 

 

祖父母の家を思い出した。

 

 

祖父母の家は、田んぼを隔てた先に大きな国道が通っていた。それは“祖父母の家の2階で寝ているときの音”、懐かしい音だった。

 

実家の隣の市にある祖父母の家に泊まる機会はそんなに多くはなく、その大体の日が寝付けなかった。たぶん、本気で羊を数えて眠ろうとしたのは祖父母の家が初めてだった。逆に目が冴えてしまって寝られなかった。

 

いつだったか、5歳くらいの時に祖母が私が泊まる用にシーツ、布団カバー、枕カバー、そして何故かゴミ箱カバーのセットを用意してくれた。白で、パステルカラーのハートが散りばめられている柄で、今の私でも可愛いと思える柄だった。“特別にされている”という感覚が、なんとも嬉しかった。その時の実家はまだアパートで、毎日布団で寝ていたのでベットで寝られることも嬉しかった。まるで外国のお姫さまみたいだ、とさえ思った。甘い夢のような記憶である。

 

 

 

祖父母はもうすぐ80代、次の免許更新で免許を返納するらしい。祖父母宅の街は死ぬほど田舎なわけではないが、それでも車がない生活など考えられない。車が運転できなくなった後の祖父母の生活はどうなるのだろう。考えると胸が苦しくなる。東京にいる私が出来ることはなんだろう。夜中はどうも考えすぎてしまう。

 

 

 

夜に聞こえる車の音は、甘い記憶と甘くはないこれからを交錯させながら、私を寝かさないでいる。

 

 

 

 

 

2020年1月10日 日記

 

銀座で泣いていた。

別に場所はどうだって良いのだが、“銀座”と明記した方が街並みの煌びやかさと惨めな顔をする自分との対比が生まれるので面白い。イルミネーションは12月で終わりではないのか、並木には金色の電飾が巻かれている。私は昨今もてはやされている青の電飾がどうも寒々しくて嫌いなので金色であることは評価する。そういえば表参道の並木金色の電飾なので、金持ちが闊歩する道はそうあるべきと決まっているのだろうか。散財を促す何かしらの心理効果が働くのだろうか。知らない、多分そんなことはない。私はどうでも良いことばかり考えて、大事なことを後回しにする。でも金色の電飾は明るくて好きだ。

 


ハンカチを出すのもティッシュを出すのも億劫なので、みっともないが適当に袖で拭う。この街で誰も私なんかに注目しているはずもないのに、泣いてるとは思われたくないので「目が痒いんですよ」というフリをする。しばらく歩き、そろそろ目元が乾いたかな、という頃合いに銀座の松坂屋に入ってそろそろなくなりそうな化粧下地を見に化粧品コーナーへ向かう。これまではPrimavistaの皮脂崩れ防止下地(鼻に油田を構えるアブラギッシュノーズの味方)を愛用していたが、乾燥が気になるのともう少しカバー力が欲しいのとで別ブランドへの乗り換えを検討している。正直コスメに明るくはないので、フロアの隅で「デパコス 化粧下地 オススメ」で検索した後(ダサいが仕方ない)、出てきたブランドを片っ端から回りサンプルをいただく。明日から毎日違う顔になれると思うと、さっきまでの惨めな気持ちが少しだけ和らぎ、胸が躍ってきた。もちろん下地を変えるだけで顔が劇的に変わるわけがないのは分かってる。これだと思える下地に出会えるといい。

 


松坂屋を後にし家路に着く。ここのところ野菜が足りていない気がしてきたので、豚汁でも作って効率よく野菜を摂取しようと思い立った。“豚汁”は冬の季語だ。次の春が来るまであと何回「今日は豚汁を作ろう」と思い立つのだろう。意外と今日で最後かもしれない。そう考えながら、転居してまだ一度しか訪れたことのないスーパーに寄る。スーパーにいて食材の山を見ていると余計なことを考えずに済むので、上京してからずっと憩いの場だ。自炊は好きなので、野菜の相場くらいはだいたい覚えた。以前住んでいた場所の近所のスーパーとさして変わらない価格設定に安堵する。強いて言えば、常備品であるレンコンの水煮は少し高かったかも。

 


謎にバカでかい人参。謎にバカでかいトマト。謎にバカでかいじゃがいもを手に取り眺める。バカでかいものを見ていると人間は思考停止に陥るらしい(たぶん)ので、バカでかいものは良い。二度目の来店にして、このスーパーを心の中で「バカでかの宝庫」と名付ける。日常において意味のない名付けは重要だ。なんでもない日常がちょっと面白くなる。

 


「バカでかの宝庫」でバカでか野菜を見ていたら、数時間前まで泣いていたことをすっかり忘れていた。帰宅後すぐさまTwitter片手にギターを弾いて歌って寝てしまったので、食材たちには申し訳ないがまだ豚汁を作ってない。数時間後の私が何とかしてくれるだろうと思う。もう朝だ。6時はまだ暗い。早く日が長くなってほしい。日記でした。

電車とかけてTwitterと説く

 

 

電車でTwitterをしていて、ふと電車とTwitterは似ているなと思った。

 


例えば、電車は匿名性の高い乗り物だと思う。隣の人が誰なのか、どんな名前でどんな職業でどこに住んでいて…等いちいち気にしない。電車に乗ってしまえば、お偉いさんもただの学生も、皆んな数百円を払っただけのただの人間。

 

 

そして乗客達は各々のタイミングで乗り、各々のタイミングで降りる。Twitterもそうだ。ユーザーは好きなタイミングでログインし、用事が来たらログアウトする。朝と夜の人口が多いのは、電車もTwitterも同じことだ。

 


あるいは、朝の電車など、ある程度車両のメンバーが固定されてくる時もある。すると暗黙の了解的な、謎の連帯感が生まれる。直接的な会話を介せずとも、そこには明らかな「認知」がある。これはTwitterでいうフォローフォロワー関係に似ている気がする。

 

 

また、例えば、ずっと一人で乗っていた女子高生の隣に同じ制服の男の子が座るようになり、日を追うごとに仲睦まじくなっていく過程を目撃すれば、ちょっと喜ばしく思うかもしれない。Twitterでも見ず知らずの人間の恋愛の行方に、勝手ながら一喜一憂する時があるかもしれない。どちらも赤の他人ながら、彼らの生活に少しばかり思いを馳せてしまう。

 

 

さらにはこんな時もある。

 


いつも一緒の車両だったあの人が、ある日を境にぱったり乗車しなくなる。時間をずらしたのか、車通勤になったのか、はたまた引越したのか。

 

いつもTLを賑わせていたあの人が、急に呟かなくなる時がある。別のアカウントに移行したのか、インスタに主軸を置くようになったのか、はたまたTwitter自体を辞めてしまったのか。

 

 

所詮は赤の他人、実生活では決して交わることのない人、そうは言えど少しばかり寂しくなる。